戦後、児童福祉法の制定により教護院となり、施設内で学科指導が行われてきたが、施設内児童にも義務教育を保障しようとする動きが起こった。その動きとして、具体的に次の2点がある。 1 児童の卒業証書を出身校(原籍校)から発行してもらう。
2 施設所在地の小中学校教員を派遣してもらう。
卒業証書の取り組みは、園長が各出身校をまわりお願いする形で進められ、昭和28年度の卒業式において初めて実現したという記録がある。(滋賀県)
一方、教員派遣の方は、最初に昭和29年に福岡学園に分校が設置されるという画期的な取り組みがなされたが、他府県においてはなかなか進展せず、園長が都道府県教委や市町村教委に何度も足を運ぶ努力がなされていた。 その結果、全国で2番目に教員派遣を実現したのは茨城県で、その後、石川・滋賀等が続いたが、分校方式ではなく、施設内学級に教員を派遣し、学科指導の一部を担当する形のものであった。 このように教員派遣が実現できたのは、学校教育法第81条(当時は第75条)【特殊学級】の第1項第6号にある「その他心身に故障のある者で、特殊学級において教育を行うことが適当なもの 」および第2項「前項に掲げる学校は、疾病により療養中の児童及び生徒に対して、特殊学級を設け、又は教員を派遣して、教育を行うことができる。」を根拠としたからである。つまり、入所児童は障害児と見なされたといえる。 昭和60年までに教員派遣を実現した都道府県等は以下の通りである。 分校併設方式 福岡(昭29) 派遣教員方式 茨城(昭40)・石川(昭41)・滋賀(昭43)・千葉(昭46)
兵庫(昭46)・神戸市(昭46)・宮城(昭48) |
昭和59年度に行われた会計検査院の検査で、いきなり施設内学級に対する教員派遣を非合法とする指摘がなされ、教員給与分等の返還命令が下された。当時の関係者の話によると、会計検査の目的は学校基本調査に関するものであるとの漠然としたもので、検査員が到着するとすぐ「児童福祉法第48条をご存じですか」という発言があり、予想外の指摘にたいへん戸惑ったということである。
改正前の児童福祉法第48条では、教護院には就学義務がなく、また昭和29年の行政実例(昭29.3.26 滋賀県教育委員会教育長あて 文部省初等中等教育局長回答)において、教護院入所児童は就学猶予又は免除で入所するとされているだけであった。その代替措置として、教護院内では教護による学科指導を行い、教護院長が発行する卒業証書が一般小中学校の卒業証書と同じ効力を有するものとされていた。 この論理からいけば、施設内学級に教員を派遣することは違法であり、教護院における学科指導と教員による学習指導は二重の国庫補助を受けることとなる。従って、これまでの教員給与の国庫補助分を変換せよというものであった。 しかし、教員派遣を実現していた施設では、就学猶予免除措置ではなく、入所児童の住民票や学籍を異動して行っていたため、5月1日現在の学校基本調査数における矛盾はなかったのである。結果として、都道府県教委からの要請もあり、また文部省も施設内学級や分校を黙認していたこともあって、文部省と会計検査院との折衝が行われ、指摘事項はおとがめなしとなった。ただし、今後の継続の条件として「教育と福祉の機能の適正化」を行うということになり、昭和60年12月に文部省行政実例および通達(昭60.12.19 各都道府県教育委員会教育長あて 文部省初等中等教育局長・同教育助成局長 「教護院に入院した児童生徒の取扱いについて」)が出された。その中の主要な4点は、次の通りであった。 1 教護院内で学校教育を行うことは現行法上可能 2 教護院での学科指導と学校教育は平行して行われる「手厚い行政」といえる
3 教護院内には分校または分教室(普通学級)を設置できる
4 学校基本調査での矛盾をなくし、標準法と義務教育費国庫負担法を適用する
この結果、派遣教員方式をとっていた施設は、分校や分教室制に移行することとなった。
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